中学生と黒住教(その3)神様の心
 




先生:前回のテーマ「神様のこと」の中で「神様は心である。」というお話をしました。今回はその神様の心とはどういうものか、という事について勉強していきたいと思います。ところで、あなた方は神様の心はどういうものだと思いますか。

生徒A:神様の心は「愛」だと思います。

生徒B:愛もあると思いますが、怒りというような心もあるのではないでしょうか。

先生:なるほど。いろいろありますね。それでは、これから黒住宗忠という人は神様の心をどのように説いたか見ていくことにしましょう。宗忠は神様の心をいろいろの面からとらえ、表現しました。

生徒C:いろいろな面からとらえた神様の心とはどういうものですか。

先生:私の見るところ、14あります。

生徒D:その14の心とはどういうものですか。






1.明るい心

 

先生:それをこれから見ていくことにしましょう。まず第一に神様の心は「明るい心」です。前回お話しましたように神様は太陽と一体です。この事から神様の心が明るい心である事がわかるのではないでしょうか。

生徒皆:わかります。

先生:それから、宗忠は「天照らす大御神を信心する場合は、少しの陰気(暗い心)もあってはならない。」と言っています。この事から神様(天照らす大御神)の心が明るい心である事がわかるのではないでしょうか。

生徒E:わかります。暗い心の反対は明るい心ですから。

先生:他の人はどうですか。

生徒皆:同じです。

先生:また、宗忠は次のようにも言っています。「心が明るくなった時は、天照らす大御神があらわれて、運を開いてくださいます。」と。この事から神様の心が明るい心である事がわかりませんか。Fさんどうですか。

生徒F:わかります。

先生:以上の事から、神様の心は間違いなく明るいものである、と言ってよいでしょうか。

生徒皆:よいと思います。

生徒F:神様とは天照らす大御神の事でしょうか。

先生:これから神様という場合はすべてそうです。

生徒F:わかりました。






2.丸い心

 

先生:第二に神様の心は「丸い(○い)心」です。宗忠は神様の心を「丸い(○い)」ものとしてとらえています。A君、なぜ神様の心を丸い(○い)ものとしてとらえたと思いますか。

生徒A:前回、先生は、神様は太陽と一体であると言われました。ですから、太陽が丸いように神様の心も丸いのだと思います。

先生:その通りですね。

生徒B:ところで、神様の丸い心とはどういう心ですか。

先生:皆さんはどう思いますか。

生徒C:角のない心だと思います。

生徒D:怒らない心ではないでしょうか。

生徒E:ぎすぎすしない心とか、おおらかな心とかではないでしょうか。

生徒F:豊かな心のように思います。

先生:なるほど、いろいろありますね。どちらも間違っていないと思います。しかし、宗忠は、丸い心というのをもっともっと深くとらえています。

生徒A:もっと深い心とはどういう心ですか。

先生:限りのない心、いつまでも生きている心としてとらえています。

生徒A:なるほど。

生徒B:しかし、どうして丸い心をそのようにとらえたのでしょうか。

先生:それは難しい問題です。思いますに、宗忠は清められた深い心で太陽を見る事によって、そのように見ることができたのではないかと思います。

生徒B:なるほど。

 


3.誠の心

 

先生:第三に神様の心は「誠の心」です。

生徒C:「まこと」とはどういう意味ですか。

先生:皆さんで辞書を使って調べてみてください。

生徒D:広辞苑には次のように出ています。まこと「誠・実・眞」、「眞事(まこと)の意」〔名〕@事実の通りであること。うそでないこと。真実。ほんとう。などです。

生徒E:旺文社の「国語辞典」には次のように出ています。〔誠・実・真〕@偽りでないこと。真実。などです。

先生:いろいろありますね。共通するところを見てみましょうか。

生徒F:「真実」という言葉があります。

先生:[まこと]の意味として[真実〕というのはいいと思います。

生徒A:[真実」とはどういう意味でしょうか。

生徒B:旺文社の国語辞典には、まこと。ほんとう。と出ています。

先生:要するに[まことの心]とは、辞書的な意味としては、[真実の心][ほんとうの心]という事でよいと思います。しかし、「まこと」には、もっと深い意味がありますが、ここでは省略します。

 


4.まることの心

 

先生:第四に神様の心は「まること(丸事・○事)の心」です。

生徒D:「まること」とはどういう意味ですか。

先生:どういう意味だと思いますか。

生徒D:りんごをまるごとかじるという言棄がありますから、そのままとか、全部とかという意味ではないでしょうか。

先生:それとは違います。

生徒E:丸い事の意味ではないでしょうか。

先生:近くなりましたが、それも違います。

生徒F:いったいどういう意味ですか。

先生:これは宗忠が独創的に造った言葉で、まるい(丸い・○い)という言棄と、まこと(真事)という言葉を合わせて一つの言棄にしたものだと思います。

生徒A:どのようにして一つにしたのですか。

先生:「まるい(丸い・○い)」の「まる(丸・○)」と「まこと(真事)」の「こと・事」とを合わせて「まること(丸事・○事)」としたのだと思います。

生徒B:なぜ二つの言葉を一つにしたのですか.

先生:まるい(丸い・○い)という言葉には、先ほど見たように深い意味がありました。そうでしたね、C君

生徒C:はい。

先生:それから、まことという言葉には真実という意味、うそ偽りのないほんとうという大切な意味がありました。そうですね,Dさん。

生徒D:そうでした。

先生:このような深い大切な意味をもった二つの言葉を一つにする事によって、より

   一層深い意味を持たせるようにすると共に、それによって神(天照らす大御神)

      を言いあらわすようにしたのです。

生徒E:まること(丸事・○事)で神(天照らす大御神)を言い表すとはどういう事ですか。

先生:まること(丸事・○事)の心は、神(天照らす大御神)と一体の心であるという事です。

生徒F:あまりよくはわかりませんが少しはわかりました。

先生:宗忠はこのまること(丸事・○事)という言葉に大変深い意味を持たせていますが、その事については機会を見てお話したいと思います。



 

先生:さて、前回、神様とはどういうものかと言えば、神様は心である、という事についてお話してきました。ところで、神様は心であるという事は、言いかえれば、神様は物ではないということです。物ではないということは人間の眼には見えないということです。目には見えないけれども、人間の心が眼には見えないけれども有るように神様の心もあるのです。

生徒A:神様の心はどこに在るのですか。

先生:天地いっぱいに在るのです。

生徒A:天地いっぱいに在るとはどういう事ですか。

先生:天地と一体になって在るということです。

生徒A:天地と一体になって在るとはどういうことですか。

先生:私たちが目に見る天地は物ですが、その物と神様の心とが一つになって在るのです。ですから、神様は天地いっぱいに満ち満ちてあるのです。

生徒B:よくわかりません。

先生:そのうち、だんだんとわかるようになります。ところで、前回は神様の十四の心の中の四つの心についてお話しました。

C君、覚えていますか。

生徒C:明るい心、丸い心、まことの心、まることの心の四つです。

先生:そうでしたね、よく覚えていました。今回は、さらに、有り難いという心、面白いという心、嬉しいという心の三つについ見ていきましょう。

 


5.有り難いと思う心

 

先生:第五に、神様の心は有り難いと思う心です。

生徒D:不思議です。

先生:どうしてですか。

生徒D:人間が「有り難い」と思うのはわかりますが、神様の心が有り難いと思う心であるというのはよくわかりません。神様にとっては何が有り難いのですか。

先生:それは大変大事な質問です.神様の有り難いと思う心は、何かが有り難いというのではなく、「ただ有り難い」のです。

生徒D:「ただ有り難い」とはどういう事ですか。

先生:神様の心は、有り難いという心でいっぱいであるということです。ということは、言いかえれば、何もかもが有り難い、また、いつでも有り難いということです。普通の人間は、自分にとって都合の良い事を有り難いと思い、都合の悪いことは有り難いとは思いません。ここが神様の心と人間の心とのちがいです。

生徒F:都合の悪い事が、神様にとってどうして有り難いのですか。

先生:そこがいちぱん大事なところです。都合がよいとか、悪いとかということは、普通の人間にとってあることで、神様の心にとっては、普通の人間が善いと思う事も悪いと思う事も皆有り難いのです。

生徒F:まだ、よくわかりません。どうして、人間にとって「悪い」と思われることが、神様にとって有り無いのですか。

先生:実は神様の心というのは人間のほんとうの心で、人間がほんとうの心、すなわち、神様の心になって見れば、悪い事でも、有り難い事として見えて(思えて)くるのです。

生徒A:例えば・・

先生:例えば、あなたが大事にしているボールペンを無くしたとします。この事がどうして有り難いかと言えば、ボールペンが無くなったという事だけを考えれば確かに有り難い事ではない。しかし、ボールペンが無くなったという事によって、あなたは、ふだんは感じていないボールペンの有り難さをしみじみと感じると思います.このような事はボールペンに限らず、すべての事について言える事です。この事を考えればボールペンが無くなったという事は有り難いことであると言えるのではないでしょうか。

生徒A:なるほど。わかりました。

先生:このように、善い事はもちろんの事、悪いと思われるような事さえも、有り難い事になるのですから、すべての事が有り難いと言う事になるのです。

生徒B:神様の心が何事も有り難いと思う心であることがわかりました。

先生:そうは言っても人間はなかなか神様のような心にはなれません。しかし、私たちは努めて神様のような心になるように努めなければなりません。そうする事によって、私たちは不幸を幸に、苦しみを楽しみに変え、意義有る人生を送る事ができるのです。

生徒C:なるほど。

 


6.面白いという心

 

先生:第六に、神様の心は「面白いと思う心」です。

生徒D:神様の「面白いと思う心」の「面白い」ということの意味がよくわかりません。私たちは落語を聞いたり、没才を聞いたりした時面白いと思うのですが、神様の心の「面白い」という意味もそれと同じですか。

先生:それもありますが、普通の人間の面白いと思う心とは少し違います。

生徒D:どういうところが違いますか。

先生:それでは、神様の面白いという心がどこから生じてくるか考えてみましょう。あなた方は難しい数学の問題に取り組んで、考え抜いてやっとわかったとき面白いと思った経験はありませんか。

生徒D:あります。

先生:そういう時の面白いと思う心が神様の面白いと思う心と同じ心です。

生徒E:もう少し詳しく説明してください。

先生:それでは、なぜ、問題がわかった時面白いと感じるか、考えてみましょう。もし、あなた方が、さっぱりわからない授業を永い聞間いていると、イヤになって心は次第に暗くなるはずです。そこからは面白いという心は生じません。ところが、よくわかる授業を開いていると、心は明るくなり、面白いと思う心が生じできませんか。

生徒F:生じてきます。

先生:それと同じように、自分で考えても考えてもわからなかった問題がわかった時は心がパッと明るくなり、面白いという心が生じて来ませんか。

生徒F生じてきます。

先生:このように、明るくなった心から生まれてくる面白いと思う心が神様の面白いと思う心です。

生徒A:なるほど。

先生:黒住宗忠は次のような歌を詠みました。

「ありがたやあら面白やおもしろや こころの雲のはれわたる時」

意味は「心をおおって、暗くしていた雲がどこまでも晴れわたって明るくなった時、心は、なんと有り難いことでしょう、なんと面白いことでしょう」ということです。この歌も、心が明るくなった時、心は面白くなるということを示しています。要するに、神様の面白いという心は、心が明るくなったところから生まれてくる感情なのです。

生徒B:なるほど。

先生:ところで、神様の心は何時でも明るいのです。ですから、神様の心は、何時でも、そして、何事も面白く思う心なのです。私たち人間はこのような、何事も、そして何時でも面白く思う心を持つ事によって幸せな人生を送る事ができるのです。

生徒A:何事も、何時でも面白いと思うことで、どうして私たちは幸せな人生を送る事ができるのですか。

先生:例えば、友達が、あるいはそうでない人が自分に対していやな事をしてきたとします。普通でしたら、腹をたてます。腹が立ったら喧嘩になります。喧嘩をしたらお互いに不幸になります。ところが、そういう時、面白いと思えば腹は立ちません.腹が立たなければ喧嘩になりません。面白いと思う心は相手を許す心でもあるのです。相手を許さず、責めれば自分の心を傷つけ、相手の心をも傷つけます。相手を許せば心は広々として幸せになります。また、物事が自分の希望通りにならなかった時、悲観してしまい、自殺してしまう人さえいます。しかし、世の中は自分の思い通りにならないのが普通であると、面白く思うと、気を取り直して再び兆戦することができます。何回失敗しても何回も立ちあがっていく気力をもつ事によって人は幸せつかむ事ができるのです。

生徒B:しかし、面白く思えといわれても、簡単には面白く思えません。

先生:面白く思う事が神の心であり、人間の本心です。ですから私たちは努めて面白くおもうようにしなければなりません。

生徒B:わかりました。

 


7.嬉しいという心

 

先生:第七に、神様の心は嬉しいと思う心です。

生徒C:神様の「嬉しいと思う心」は「有り難い」とか「面白い」とかがそうであったように、何事も、そして何時でも嬉しいと思う心でしょうか。

先生:そうです。

生徒C:神様はそうであっても、わたしたちは何でも嬉しいとは思えません。

先生:もっともです。私たちの心は、前にも言いましたように,普通は嚢った状態にあるのです。神様の心のように明るく晴れわたってはいません。それで、何事も嬉しいとは思えません。ですから、私たちは本来の心、神様の心に近づくように努めなければならないのです。

生徒C:無理にそう思うのですか。

先生:努めてそう思うようにするのです。そうすればそう思われるようになります。人間の心はそのようにできているのです。人間の心というものは、物事を有り難いと思うようにすればその物事の有り難いところが見えてくるし、面白いと思って見れば自然と面白く思われてくるものです。同じように嬉しいと思うようにすれば嬉しく思われてくるものなのです。とは言っても、私自身、なかなかそれができないでいるというのが正直なところです。

でも、努めてはいます。

生徒E:ところで、いつでも有り難いと思い、面白いと思い,嬉しいと思いなさいと言われても、同時に三つの事を思う事はできないのではないでしょうか。

先生:その通りです。私たちはその三つの中のどちらかをその時、その場に応じて使い分けていけばよいのです。

生徒E:なるほど。よくわかりました。


先生:さて、前回までは神様の十四の心の中の七つまでをお話いたしました。これから残りの七つについてお話しますが、今回はその中の三つについてお話したいと思います。その三つとは「楽しむ心」「無の心」「自分のものはないという心」です。

 


8.楽しむ心

 

先生:まずはじめに「楽しむ心」について見ていきましょう。

生徒A:前回は神様の「有り難いという心」「面白いという心」「嬉しいという心」について学びましたが、そこでわかった事は、神様の心は何でも、そして、何時でも有り難いという心であり、また、何でも、そして何時でも面白いという心であり、そしてまた何でも、そして何時でもうれしいという心でした。

先生:確かにその通りでした。

生徒B:それでは、今先生がおっしゃった「楽しむという心」も,何事もそして何時でも楽しむという心でしょうか。

先生:そうです。その事について宗忠さまは次のように言っています。「何事も皆天命であると思って受けとめて、何事も楽しむようにしたならば、その何事も楽しむという心が天照大神(あまてらすおおみ神)の御心である。」と。

また、次のようにも言っています。「天照太神(あまてらすおおみかみ)と心を一つにして楽しむならば、いつまでも楽しむ事ができる。」と。

このようにして神様の心というものは、何事も(どんな事も)楽しむ心であり、何時でも(どんな時でも)楽しむ心なのです。

生徒C:神様の心がどんな事でも、そして何時でも楽しむ心である事がわかりました。ところで、宗忠さまとはどういう方ですか。

先生:正しくは黒住宗忠といい、1780年に岡山に生まれ、たいへん親孝行の心の深い人でした。35歳の時に、お日さまと一体の宇宙神、天照太神と一体になって、天照太神のみ心を明らかにし、その心で生きれば最高の人生を送る事ができるという事を世の人々に知らせ、何万という人々を救いました。1850年に昇天され、京都の神楽岡と岡山市の大元の「宗忠神社」に神として祭られています。

生徒C:なるほど、よくわかりました。

 


9.無の心

 

先生:天照大御神の心は「無の心」です。

生徒A:「無の心」とはどういう心ですか。

先生:何の思いも考えない心のことです。

生徒B:そういう心は死んでいるのではないですか。

先生:どうしてですか。

生徒B:ものを考えたり、思ったりするのが心ではないでしょうか。

先生:たしかに心にはそういう働きがあり、ふつう私たちはものごとを考えたり思ったりして生活していることも事実です。しかし、「無の心」は考えることもなく、思うこともなくして判断し、しかも正しく判断する力をもっている生きた心なのです。ですから人間が正しく生きるためには「無の心」を持つことが大事なのです。ここがいちばん大事なところです。

生徒C:どうすればそのような「無の心」になれるのですか。

先生:人の心には必要も無いいろいろの思いや考えがたえず生じてきます。そのような思いや考えやすなわち雑念が生じようとするときすぐにそれをはらってなくしてしまうのです。これを「(はら)いの修行」といいますが、それを続けていくうちに心は次第に「無」になります。しかし、心を完全に「無」にすることは大人になってもなかなかむずかしいことです。しかしそれでも人は心を無にするようにつとめなければなりません。

生徒D:それはどうしてですか。

先生:先ほども言いましたように人は「無の心」になったときに人間として正しい判断ができ、正しい行いができるようになるからです。

生徒E:どうして「無の心」にはそのような力があるのですか。

先生:「無の心」とは天照大御神の心と同じだからです。

生徒E:なるほど。

先生:その他「無の心」についてはお話しなければならないたくさんの大事なことがありますがそれはむずかしいことなのでここでは「無の心」という大事なものがあるということだけを知っていただきたいとおもいます。そしていつの日か「無の心」について心ゆくまでお話し合いができることを楽しみにしています。

生徒F:その時はどうぞよろしくお願いいたします。

先生:わかりました。こちらこそよろしくおねがいします。

 

 


10.自分の物はないという心

 

先生:それでは、次に神様の心が「自分の物というもののない心」である事について見ていきましょう。この事について宗忠さまは次のように言っています。

「いっさい、天照皇太神に限り我が物というものは少しもありません。そのおおみ神の御心が自分の本心であるという事が間違いのない事であると思うと有り難くて有り難くてなりません。」と。

生徒A:どういう意味でしょうか。

先生:他の神様はともかく天照大神にかぎって、自分の物というものは少しも少しもありません。その自分の物というものは少しも少しもないという心が自分の本心であると言う事は間違いのない事であると思うとありがたくてありがたくてなりません、ということです。

生徒A:なるほど。ところで、天照大神と天照皇太神とは同じ神様でしょうか。

先生:そうです。

生徒B:ここではどうして「皇」の字が入っているのでしょうか。

先生:それは「自分の物はない」という心が神様の心の中でもたいへん大事な心であるからではないかと思います。

生徒B:どうしてそういう事が言えるのですか。

先生:宗忠様は、天照大神の十四の心が人間の本心である事を知っています。しかし、その中で「自分の物はいっさい無い」という神様の心が自分の本心であると言う事を知ったとき「有り難くて有り難くてなりません」と言っているのです。

ここから「自分の物はない」という神様の心が大変大事な心であることが分るように思います。

生徒B:なるほど。

生徒C:「自分の物はない」という心はどういう心でしょうか。もう少しくわしく説明してください。

先生:我がない心、無我の心、無私の心、あるいは無の心と言ってよいと思います。

生徒C:分りました。

先生:では今日はこの辺でおしまいにしたいと思います。次回は残りの四つの心についてお話いたします。

 



先生:さて、今回は天照らす大御神様の十四の心の中の最後の四つの心についてお話いたします。共々に勉強してまいりましょう。


11.生きとおしの心

先生:天照らす大御神の心は「生きとおしの心」です。

生徒A:「生きとおし」とはどういうことですか。

先生:いつまでも生きているということです。天照らす大御神の心がいつまでも生きているということは、その大御神のお心を分け与えられている人間の本の心もまたいつまでも生きているということになります。

生徒B:人間の本の心とはどういう心ですか。

先生:それは大事な質問です。人間の本の心とは、人間の清い心、明るい心と言ってもよいと思います。

生徒C:人間の清い心、明るい心とはどういう心ですか。

先生:清い、明るいの反対は何ですか。

生徒D:清いの反対は濁っている、明るいの反対は暗いということであると思います。

先生:そうです。人間の心は本もと清く、明るいのですが、何時の間にか濁ったり暗くなったりします。たとえば、友達にやさしく、親切にしたりする事もありますが、友達の悪口を言ったり、ときには憎んだりする ことさえあるのではないでしょうか。

生徒E:あります。

先生:では、どちらが人間としてのほんとうの心だと思いますか。

生徒F:やさしく、親切にする心だと思います。

先生:ということは、清い心、明るい心が人間のほんとうの心だということになりませんか。

生徒A:なります。

先生:ただ、人間は自分にとって不利なことがあったり、心配なことがあったりすると心は曇ったり、暗くなったりします。ここから、実は人間の苦しみや不幸が生じてくるのです。ですから、私たちは常に本の心すなわち清く明るい心を保つように努力しなければなりません。そこから私たちの本当の楽しみや幸せは生まれてくるのです。

生徒C:なるほど。ところで、この人間の清い明るい心が生きとおしの心、いつまでも生きている心であるということでしたが、人間の心がいつまでも生きているということにはどんな意味があるのですか。

先生:それはたいへん大事な質問です。

人間の心がいつまでも生きているということは人間はいつまでも生きているという事です。

生徒D:それはどうしてですか。

先生:普通私たちは人間の命を肉体の命と同じものと考えています。しかし人間の本当の姿は肉体ではなく心なのです。よく考えてみて下さい。「あの人はよい人だ」と言うとき、あの人は肉体のよい人だという事を言っているのでしょうか。

生徒E:いいえ、肉体ではなく、心のよい人だという事を言っているのだと思います。

先生:そうですね。よい人とは心のよい人のことです。という事は、人とは肉体でもあるが、大事なのは心であって、人間の本質は何かと言えば心であるという事になるのです。ここから、人間の心がいつまでも生きているということになれば、たとえ肉体は死んでなくなっても、心(魂)はいつまでも生きつづけるので、人間はいつまでも 生きて  いるということになるのです。ところで、人間がいつまでも生きているという事にはどんな意味があるかということでしたが、人間は死ぬということがなく、いつまでも生きているという事について確信を持つ事ができるようになれば、人間は死ぬ事の恐怖から開放されるのです。そうなれば、人間は大安心になります。この大安心の心を持つと持たないとでは人生に大 きな違 いが生じてきます。

生徒F:どんな違いが生じるのですか。

先生:人は心配や不安な事があると心は曇り,また暗くなります。暗い心からは楽しみや幸せは生まれてきません。大安心は人の心を明るくし、その明るい心から明るい人生が開けてくるのです。

生徒一同:なるほど.よくわかりました。ありがとうございました。


12.無限の心

先生:神様の心は無限です。

生徒A:神様の心が無限であるとはどういう事ですか。

先生:神様の心は限りない力をもっているという事です。そしてどんな事でもできる力をもっているという事です。

生徒B:なるほど。

先生:ところで,人間はもともと神様と同じ心をもっているのですから、人間もまた限りのない力をもっているという事になります。ただ、もともとそういう力を持っているとは言っても、人間が神様と同じような力を出すためには神様と同じ心にならなければなりません。それはたいへん難しいことであるという事も事実です。大事な事は人間が限りのない力をもともと持っているという事を知ることです。これを知ると知らないと出は人生に大きな違いがでてきます。

生徒C:どんな違いが出てくるのですか。

先生:自分がもともと限りのない力を持っているという事を知る事によって難しい問題に直面しても、簡単にあきらめない人生を生きる事ができるのです。例えば、難しい問題に出会った時、もう自分にはこんな難しい問題は解けないとすぐにあきらめてしまう人がいますが、これでは、自分の力を出しきる事はできず、自分に神様が与えてくださったもともとの立派な姿の人間に成長させる事はできません。自分にはこれを解決する力はないと思わず、無限の力を神様が与えてくださってあるのだと信じ、もっともっと力があるはずだ思って、どこまでも立ち向かって いく

 時、新しい人生がそこに開け、大きく成長して行く事ができるのです。

生徒C:なるほど。

生徒D:私はこれまで難しい問題に出会うとすぐにあきらめるほうでした。これからはさいごまであきらめずに挑戦 していきたいと思います。

先生:それが人生にとってもっとも大事なことです。

生徒D:よくわかりました。


13.万物を生み出す心

先生:神の心は万物を生み出します。このような神様の心を分け与えられている人間の本の心もまた万物を 生み出す力があるという事になります。

生徒E:人間が万物を生み出す力を持っているという事はとても考えられません。

先生:ごもっともです。人間が万物を生み出す力をもっているとは言っても、それは人間が神と同じ心になった場合のことで、普通の心ではそれはできないことです。

生徒F:人間は神様と同じ心になれるのですか。

先生:それはなかなか難しい事です。ただそれに近い心にはなれるのではないでしょうか。大事なことは、人間は本来的に神様と同じ心を持っているという事を知るという事です。

生徒A:どのように大事ですか。

先生:私たちは考える事によっていろいろの物事を生み出す事ができます。人類の歴史の中で人間はそれまでは無かったいろいろの事を発明発見してきました。それは人間が神様から物事を生み出す力を与えられているからです。ですから、私たちは勉強する時でもよく考え工夫しつづける事によって今までは無かった答えを見出す事ができるのです。

生徒B:なるほど。

先生:人間は答えを求めて考え続けることが大事で、そのことによってはじめてそれまでには無かった新しいものを生み出す事ができるのです。

生徒C:なるほど、よくわかりました。


14.恵みの心

先生:神の心は恵みの心です

生徒D:恵みの心とはどういう心ですか。

先生:それはよい質問です。そして大事な質問です。「恵み」の意味を広辞林で調べてみると、「慈愛」と 出ています。

生徒E:慈愛とはどういう意味ですか。

先生:これも広辞林に「愛する。あわれむ。恵む。」とあります。要するに、分り易い言葉、聞きなれた言 葉では「愛する」ということになるかもしれません。

生徒F:それはキリスト教でいう「愛」と同じでしょうか。

先生:違います。

生徒A:それではどう違うのですか。

先生:天照らす大御神の恵みの心は天地に満ちわたっているというところが違います。

生徒B:神の心が天地に満ちわたっているとはどういうことですか。

先生:それには二つの意味があります。

生徒C:二つの意味とはどういう事ですか。

先生:その一つは、天地の中に有るすべてのもの、生きているすべてのものは神の恵みの心によって貫かれているということです。という事は言いかえれば、すべてのもの(人間を含めて)は神の恵みの心によって生かされているという事です。ですから、私たちは神の恵みに感謝しなければなりません。

生徒D:なるほど、わかりました。ではもう一つはどういう事ですか。

先生:天地の中のすべての出来事は、人間にとってすべて神の恵みにほかならないという事です。ですから、私たち人間は天地のすべての出来事を神の恵みとして、有り難い事として受けとめて生きていかなければならないという事になります。

生徒E:しかし、世の中の出来事の中には悪い事も災害もあるのではないですか。

先生:確かにそうです。しかし、天照らす大御神の心にとっては、すべてが有り難いのです。

生徒F:そういう事はとても分りません。

先生:ごもっともです。この事については後の機会にくわしくお話することにしましょう。

生徒A:よろしくお願いします。

先生:以上、神の十四の心について見てきました。これらの心は人間の本の心でもあるのです。この心を大事にして生きていく事が人間としての最高の生き方であり、人間として最も幸せになる道でもあるのです。

生徒B:有り難うございました。