黒住教のあらまし
黒住教について
その神観
その人間観
その生き方
そのための修行方法
教典
霊地神道山
霊地大元
教祖記念館
宗忠神社祖霊殿
京都神楽岡・宗忠神社
伊勢神宮とのこと


高座で道を説く教祖宗忠
黒住教について

 黒住教は、岡山藩主池田家の守護神社今村宮の神職黒住宗忠(安永9年1780〜嘉永3年1850)が、日の出を拝んで立教になった(文化11年1814)神道教団である。
幼少の頃から親を想う心の強かった宗忠は、最高の親孝行は、生きながら神の心を心とした人間になることだと15才の頃に決意、以後そのために自らの心を養い育てることを主眼とした年月を重ねた。

 文化9年(1812)、32才の時、両親が流行病のため相次いで昇天したのを嘆き悲しみ、そのために肺結核に倒れ翌々年の正月過ぎには、瀕死の状態に陥った。

今村宮(岡山市今)
 文化11年(1814)1月19日(旧暦)、最期の別れにと、幼い頃から両親とともに手を合わせてきた朝日を拝む「日拝」をした。この時をさかいに病は快方に向かい、2ヵ月後の3月19日には、全快の感謝の日拝ができた。

 その年文化11年11月11日、この日は宗忠34回目の誕生日であり、冬至の日でもあった。感激も新たに日の出を拝んでいるとき、日の出の太陽は光のかたまりとなって宗忠に迫ってきた。思わずその光を呑みこんだ宗忠は、感謝と感激の中に神人合一の宗教的神秘体験を得た。黒住教ではこの宗忠の体験を「天命直授」といって立教の時としている。

教祖宗忠真筆「七カ条」   
その神観

 太陽、とりわけ日の出の太陽に顕現するすべてのものを生かし育む働きを天照大御神と称え敬い、その分霊があらゆる存在物、働きに宿る(これを総称して八百萬神という)とする。

その人間観

 宗忠は「人とは日止まるの義、日と倶にあるの義」と教え、人間は天照大御神の分心(わけみたま)の鎮まる神の子であるとする。

その生き方

 人生は、神の子、神の苗として生まれた人がその分心を養い育て、いずれ訪れる死という神としての出発の時に、一柱のしっかりした神として立つ(“生き通し”という)べく道場であるとする。

そのための修行方法

◎毎朝の日拝と御陽気修行
 教祖の天命直授の日拝にならい、日の出の太陽を呑み込む思いで「御陽気をいただきて下腹におさめ天地ととともに気を養う」ことが日拝の神髄。御陽気修行とは、日の光を呑み込んで下腹におさめ、もって天照大御神とひとつにとけこむべくつとめる一種の呼吸法。

◎お祓い修行
 古来、中臣の祓いともいわれる神道の祈りの詞「大祓詞」を何度もくり返して唱えることを通じて心を祓い澄ます。このときも御陽気修行と同様、下腹で息をする、いわゆる丹田呼吸をしながらつとめる。



  ↓次のように書かれています

  日々家内心得の事

  一、神国の人に生まれ常に信心なき事
  一、腹を立て物を苦にする事
  一、己が慢心にて人を見下す事
  一、人の悪を見て己に悪心をます事
  一、無病の時家業おこたりの事
  一、誠の道に入りながら心に誠なき事
  一、日々有り難き事を取り外す事

  右の条々常に忘るべからず
          恐るべし 恐るべし
  立ち向こう人の心は鏡なり
         己が姿を移してやみん

教祖宗忠詠

有り難きまた面白き嬉しきと
みきをそのうぞ誠なりける
◎人のために祈り、誠を尽くす
 病に苦しむ人をはじめ人生の悩みの淵に沈む人などのために、教祖がつとめたように、その人の分心が日の出の太陽のごとく丸く、明るく、たくましく、大きくなるように祈り、真心という愛情を捧げる。ここに「誠はまること」の教えの通りに、その祈りや奉仕は大きく循環して自らの分心の養いになっていく。

◎日常の生活がすなわち修行
 教祖が20才の頃、神となるべく心の養いにつとめるために作った「五カ條」、これをさらに教祖として立ってから充実完成させた「七カ條」を日々の反省の糧としてつとめる。

教典

 教祖のつくった300首をこえる短歌(現存する)と、信者で参勤交代のため江戸に赴いた岡山藩の武士にあてた手紙260余通(現存する)が、七カ条とともに黒住教の教典となっている。

神道山(東上空より)
霊地神道山

 黒住教の本部は、岡山市尾上神道山(JR岡山駅から西に車で15分)にあり、岡山市街地からはるか瀬戸内海を見はるかす頂上(海抜120m)に「日拝壇」があって、ここで教主を先達に毎朝日の出を迎え拝む「日拝式」が、欠かさず執り行われている。
 主な祭りは、春の「教祖大祭」、夏の「大祓大祭」、冬の「冬至大祭」で、昭和49年(1974)に立教の地である霊地大元から神道山に大教殿が遷座以来、秋にご遷座記念祝祭が執り行われている。

大教殿(東側面)
◎境内地にある主な施設
大教殿・・・本部神殿
       農家を基本とした建築
       浦辺鎮太郎氏建築設計
       御本殿は伊勢神宮内宮の古材で造営
       教場は300畳のたたみ敷
       大屋根は板状の玄昌石
       故藤原建氏制作献納の備前焼千木鰹木棟瓦
奥津城・・・教祖宗忠、代々教主の墓、道づれの墓
学院・・・・・黒住教の布教師を養成
日新社・・・教団の月刊機関誌の編集、書籍頒布担当
宝物館・・・教祖の短歌や手紙、陶芸作品、絵画を展示
神結館・・・大教殿とつながる参拝者憩いの場
鶯鳴館・・・宿泊設備
茶店・・・・・食堂     

大元・宗忠神社

霊地大元


 教祖宗忠生誕の地であり、立教の地である「大元」は、岡山市上中野にあり、霊地大元として立教以来160年間教団本部であったが、昭和49年(1974)、壮大な日の出を求めて神道山に遷った。今日では、教祖生誕の場所に明治18年(1885)に鎮座した宗忠神社を中心に、いわば岡山市民の氏神様的な神域としても多くの人々の信仰を集めている。神域内には教祖記念館、宗忠神社祖霊殿、黒住教武道館(生々館道場)、ご神湯“大元温泉”などがある。
 
宗忠神社の主な祭りは神道山とほぼ同じだが、毎年4月には教団最大行事の「宗忠神社御神幸」が斎行される。これは、宗忠神社鎮座の翌年の明治19年(1886)に始まり、戦前戦中に途絶えていたものが昭和27年(1952)に復活した祭りである。
“御鳳
”を中心に、古式にのっとった衣服をつけた1,000人の奉仕者が、大元から祭典の行われる後楽園を往復して世界大和を祈る祭りで、“岡山さくらカーニバル”の中心的な祭りでもある。

教祖記念館
教祖記念館

 嘉永元年(1848)に建築された建物で、教祖は建築に際して信者の代表にできるだけ質素にと特に要望している。本教第一号の「大教殿」ともいえるこの建物では、教祖在世中、2の日、7の日の月6回、「ご会日」という名のもとに教祖の直々の祈りと説教が行われた。ここでは武士といえども刀を付けては神前に進むことはできず、身分の差別なくまさに人間平等の精神が貫かれていた。なお、この教祖記念館の“御居間”こそ、嘉永3年(1850)2月25日(旧暦)に教祖が昇天した場所である。

宗忠神社祖霊殿
宗忠神社祖霊殿

 教祖の「150年大祭」が行われた平成12年(2000)に建築されたこの建物は、教祖記念館の奥庭、宗忠神社宮司邸の玄関前に建つ。納骨された霊を宮司が、昼夜をわかたずお守りするためである。祖霊殿は親孝行をその生き方の基本にする黒住教にあって、いわゆる「敬神崇祖」を象徴する建物である。

京都神楽岡・宗忠神社
京都神楽岡・宗忠神社

 江戸時代の最末期の文久2年(1862)京都市左京区の吉田山の南端に宗忠神社が鎮座した。これは、時の帝、孝明天皇から「宗忠大明神」の神号を賜り、吉田神社からその東南の高台を提供されて建立された神社で、孝明天皇の仰せだされた唯一の「勅願所」(天皇陛下が国・国民の平安を祈る寺社)ともなった。元治元年(1864)のいわゆる「蛤御門の変」のときのご神慮は、この神社の歴史を物語っている。春秋の例大祭には教主が正式参拝している。

伊勢神宮内宮
伊勢神宮とのこと

 黒住家が先祖代々仕えてきた今村宮の主斎神が天照大御神であることもあって、宗忠は教祖として立つ前に一度、伊勢神宮に参り、さらに教祖に立ってからも参宮を続け、生涯に六度、伊勢神宮の大前に額ずいている。
ここでの祈りは常に
「謹みて天照大御神の御開運を祈り奉る」(御開運の祈り)
であった。
二代宗信のとき「伊勢千人参り」を斎行し、明治時代になって三代宗篤、四代宗子と二代にわたって「伊勢萬人参り」をつとめている。このような伊勢神宮とのご神縁から、昭和48年(1973)第59回の式年遷宮(20年ごとに伊勢神宮のすべての社殿を新しく造り替える大み祭り)で“古殿”となった“内宮”の建築材を大量に下賜され折りしも神道山大教殿建築工事のさ中で、御本殿はすべてこの“神宮のご神木”で設えることができた。
 このご神恩に報いるためにもと、昭和59年(1984)から第60回式年遷宮にご奉賛申し上げるべく10年間献納を重ね、平成5年(1993)式年遷宮の終わった“新宮”に平成6年、昭和55年の伊勢萬人参りに続いての萬人参りをつとめた。
 昭和55年は教祖宗忠生誕200年の年にあたり、神道山大教殿において5回にわたって祝祭をつとめた。このみ祭りには、特別参拝者として伊勢神宮二條弼基大宮司をはじめ出雲大社千家尊祀宮司、金光教金光鑑太郎教主、東大寺清水公照管長、天台宗延暦寺葉上照澄長ろうが参拝して御神前に玉串を奉奠した。
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