4月の御教え
 







我という我ほどおしきものはなし

おしむ我から我を失う (御歌二一三号)








《解説》


 





 我欲や我執に対する(いまし)めは、どの宗教にも共通する重要な教えです。本教では「我を離れよ」の御教えを学んで身に修めるべく、ともに(けん)(けん)服膺(ふくよう)しています。


 「我」の問題の難しさは、それが(ほうむ)り去るべき“悪者”ではないことです。自己とか個性とかアイデンティティーなどと表現される自分自身のことであり、意欲や誇りや希望や感動の源泉でもある「我」は、そもそも消し去るべきものではありません。


 (ぬぐ)い去らなくてはならないのは、自分だけを良しとする利己的な欲望と執着心です。まさに「我の欲望(我欲)と我の執着心(我執)」なのですが、道理が分かれば体現できるようなものでは、もちろんありません。


 教祖宗忠様は、「明け暮れ、ただ、我を離れる事ばかり修行せよ」、「惜しい、欲しいを離れるが、道修行の大垜(おおあずち)(あずち) : 弓場の的山。転じて『標的・目標』)」と、徹底して「離我」の大事を御教えになりました。そして、「我を離れよと申しても、初めての人は合点がいくまい。―手に持てるものを放すのではない。我を離れるのは、一切を天の物と心得る事なり。―あるいは着物を着るにも、我がこしらえた着物だと思うと有り難くなし。これは、天より我に着せて下さる・・・、有り難い事だと喜んで、一切、天の物と心得て有り難くなれば、我が離れる」と、着物を例にとって「離我」の要領を分かりやすく説いて下さっています。


 「おしむ我から我を失う」と、絶妙な洒落(しゃれ)を込めて「お道修行の“大目標(大垜)”」を詠まれた今月の御教えから、教祖様が「あまり力まずに・・・」とお(さと)し下さっているようにも(うかが)えます。まずは「我」ではなく「我々」に、“受け皿”を広げてみるのも一考かもしれません。肯定的に評価されることの多い、 “自分流” や “スタイル” や “こだわり” も、独りよがりに(おちい)っていては単に迷惑なだけなのですから・・・。