8月の御教え
 












迷いこそ世におそろしきものはなし


鬼としりつつくわれぬるかな(御歌一六九号)













《解説》

 「右、(むね)(ただ)(のかみ)常に教え(たま)いし御言葉なり」の一節で締めくくられている「三十カ条」において、第二十八条は「臆病と疑いが去らねば御蔭(おかげ)は現れぬぞ」であり、最終の第三十条は「迷えば魔寄ると申して、人の心が迷う時は、()の虚へつけ込み、悪魔がより集まりて様々(さまざま)の因果たたりをいたす。油断はならぬぞ」です。

 心を痛め損なうことを強くお戒めになった教祖様の御教えに、暗く陰気な御言葉は滅多に登場しませんが、恐ろしい文言をあえて繰り返して用いておられるところに、「迷い」に対するご忠告の深遠さが伺えます。

この「迷い」こそ、教祖様が「信心とは、信じる心、(まか)す心、(まこと)の心」と御教え下さった、「信心」とは全く裏腹な心です。「臆病や疑い」という「迷い」があっては、祈りも願いも通じるはずはありません。

ただ、「信ぜよ、されば救われん」という言葉に代表されるように、いずれの宗教でも「信心(信仰)」の大切を説き教えるもので、大切なことは「何を信じるか」です。「(いわし)の頭も信心から」という(ことわざ)ではありませんが、迷信や因縁や霊障(たたり)と称されるものも、また自分勝手な思い込みも、信じさえすれば「信心」と言えるものではありません。そこのところを、教祖様は「好きな事に迷うな。格別好きなものは敵と思えよ」、「大事大事と思う心も迷いなり」と御教え下さいました。すなわち、「(まこと)(誠)の心」を外れた信じ込みは「迷い」なのです。

本教の教えの普遍的で有り難いところは、「日の教え」であることです。「太陽、とりわけ昇る朝日に顕現される天照大御神のご神徳(御陽気)は(あまね)く世の中に満ち渡り、大御神の分霊(わけみたま)が分心として万人に授けられ、『光と(あたた)まり』の中で生成養育され、神と人は親子の間柄である」(「道の(ことわり)」要旨)という、誰もが疑いようもなく感謝と感激の内に納得して信仰させていただける天地の真理を、教祖宗忠様が「天命直授(てんめいじきじゅ)」という尊き御悟りによって説き明かして下さっているのです。

 憶病と疑いを去り、天地の大道を信じ切り、「日(とど)まり、日と(とも)にある人」としての本分を、迷うことなくつとめてまいりたいものです。