10月の御教え
 














姿なきおのがこころとしりながら


姿に迷うこころくるしさ (御歌一一四号)















《解説》




 「ご分心(神の心・心の神)」の鎮まる「わが心」という “器” を汚す罪・(けが)れとして、「我(我欲・我執)」、「腹を立て物を苦にすること」、「慢心」、「悪心」、「臆病・疑い」、「迷い」といった “負の要素” について、数カ月にわたって学んでまいりました。教祖宗忠様が「祓いは神道の首教なり」と説き、「常の祓い」を繰り返して御教え下さった深意を学び実践することが何よりも大切ですが、「心の祓い」の難しさは、「心」が姿形のない、どこにあるのかさえも定かではない、目に見えない存在であるということです。


 「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う」(道の(ことわり))と教え示された教祖様にして、「身」すなわち姿形ある存在に心が左右され、「形のことを忘れ(ひの)(かみ)日々(ひび)の御心に任せ」(同)ることがいかに困難なことかを明かして下さっているのが今月の御教えです。同じ心境を詠まれたのが、「姿こそかりの器と思えどもかくなり給う今の心は」(御歌一一五号)との御神詠ですが、「教祖様、もっと知りたい近づきたい」を “祈りのスローガン” として修行の目標とする私たち黒住教の道づれ(教徒・信徒)は、教祖様の真摯(しんし)なご修行を、もっと真剣に学びつとめなければならないと深く反省するものです。


 一方で、先月号の本稿で学ばせていただいたように、恐ろしき「迷い」も「迷いなければ楽しみもなし」と御教え下さり、「祓いがたき雲霧」も「またはるるときまつぞ楽しき」と詠まれた教祖様ならではの御歌ではないかと拝察するのが、「姿にも眼にも声にもあらわれてかくし得難き我が心かな」という道歌です。姿形のない心なればこそ、姿(身)にあらわれて目の当たりにすることができ、声を通して耳にすることもできるのが「真心」です。誠実な人柄が(にじ)み出るような「お道人」を目指して、に誠を尽くしてまいりましょう。