5月の御教え
 
天地(あめつち)の有り難いこと数うれば 浜の真砂(まさご)の数も及ばじ
  (石尾乾介高弟詠)

《解説》

 どんなに嬉しいことも楽しいことも有り難いことも、それが日常茶飯事(さはんじ)になると私たちは「あたりまえ」だと感じます。「有ることが(むずか)しい」すなわち「滅多にない」から「有り難い」わけで、「あたりまえ」と「ありがとう」は反対の心です。

しかし、「あたりまえ」は本当に「あたりまえ(当然)なこと」なのでしょうか・・・?

普段、何気なく「あたりまえ」だと思っていたことが、少し考えてみるだけで、実は「滅多にない」すなわち「有り難い」ことであると誰でも気づくはずです。「ありがとう」の反対は、この「あたりまえ」だと思う(または、感じる)“気持ち”です。

世の中が便利に、そして(らく)になって、ますます「あたりまえ」と感じることが多くなってきたようです。ボタン一つで暑さも寒さも制御でき、居ながらにして世界中の出来事を知ることも可能になり、買い物も自宅で行える時代です。携帯電話の普及によって公衆電話を探す苦労が増えたかもしれませんが、すれ違い続きで視聴者が気をもんで人気を博した昔のテレビドラマのような現象はあり得なくなりました。数え上げればキリがありませんが、これらはひとえに技術の発展・進歩による賜物(たまもの)であって、その恩恵を受けている私たちが安易に非難することはできません。また、忘れてはならないことは、戦後世代が大半になってますます増える平和の「あたりまえ」です。「平和と安全と水は無料(ただ)」といわれた時代ではなくなったものの、戦争や紛争などの不条理な危険に身を(さら)す国民がいない国は「滅多にない」ことです。

恵まれているはずの現代の日本社会ですが、とても幸せな状態であるとはいえません。古来日本人が重んじてきた美徳・美風が失われ、人間として最低限の倫理・道徳観さえも失墜(しっつい)している現状を思うとき、何もかも「あたりまえ」と受け流してきた一つひとつの事象を改めて学びなおすことから始めざるを得ないのではないでしょうか。今月の御教えを基本として、次回以降しばらく「五つの誠」の分類から離れて、「あたりまえ」の「ありがたさ」を学ばせていただきたいと思います。