1.まえがき

[日本の岡山に居られる福光家の皆様に捧ぐ]

岡山市神道山上のご日拝のすがすがしい写真が、表紙カバーになっているヘレン・ハーデカさんの本をめくると、最初の真っ白なページ、この一行だけがプリントされているのが印象的である。そして目次に続いて、次のように、研究論文には珍しい序文がある。

 [この研究の為のデータ収集をしている間、私は岡山県にある黒住教大井教会所で、 福光所長とその家族の人たちと一緒に過ごしました。時々は私も1人になる時間が欲しかったものですから、福光家にお願いをして、特別に一部屋をあてがって頂くことができました。 ラッキーだったとでも言いましょうか、私に下さった部屋は、結果的には私のプライベート・ルームとはならず、私がその部屋にじっと引き篭もるようなことにはならなかったのです。その部屋には四方にドアがありました。教会所にお参りになる信者たちは、まもなく、私がご神前の大広間に出て行くのを、心待ちしているようになって来ました。私の部屋のドアはどれでも、朝六時から夜遅くまで、いつでもさーっと開けられるようになっていました。ですから信者たちは、黒住教と福光先生たちから頂いた沢山の有難い話を、私のところへ来て語って呉れたのです。病気の治った話、夢に見た印象深い話、家庭内のいざこざを解決した話、そして教会所が色々と相談にのって呉れると言う話などです。彼等は、自分たちの経験談をとても熱心に話して呉れました。彼等の話に付いて行くのに、時には辟易したこともありました。そこで私は、ノートをつけテープレコーダーを用意する事にしたのです。所長先生たち、特に福光克江と福光佐泰夫妻は、自分たちの信仰について、労を惜しまず説明して呉れました。克江の母・郭江は、私を連れて西日本中を訪ね歩き、黒住教の教えや、訪問した沢山の教会所の内情などを丁寧に説明して呉れました。彼女は私のために、自分の人生の物語を書いて呉れましたので、この本の第六章に翻訳して載せてあります。この体験記録と、彼女の娘・克江の説教は(第三章に翻訳してあります)、有難い・嬉しい心と、太陽信仰の精神を生き生きと伝えます。私が、福光家の人たちを通じて、黒住教の信者たちと楽しい繋がりを持つようになった裏には収集できた資料のことまで言わなくても、数多くの貴重な友情が篭っているのです。福光所長たちが信者に対して、完璧に徹底して献身しているところを眼のあたりにすると、人間の心の中に潜むエネルギーとパワーの深さを、改めて思い知らされるのです。私は、黒住教を、広範囲にわたる論点の実証例として、論文に記述して来ましたが、のユニークさは、格別の感銘になっています。外部から観察するだけでは、あの四方がドアになっている部屋で(このドアを外すと、多目的に使用可能で実用的である)、私が味わった充実感は、誰も想像できるものではありません。日本の宗教を専攻する学生なら、全員がこのような経験を少なくとも一度はして貰いたいと思っています。]

さらにページをめくると、これも学術書には珍しいことだが、「お礼の言葉」として、もう一ページ序文が続くのである。

[この研究は、日本における実地調査に基づいていますが、そのためにプリンストン大学のご後援を賜りました事を、心から感謝します。−中略-黒住教第六代教主・黒住宗晴氏には、黒住教研究の許可を賜りますと共に、観察調査と対面調査のために、数え切れない便宜を、取り計らって頂きました事を、心から感謝申し上げます。また、何百人と言う黒住教信者の皆様から、親切にそして寛大に、時間を割いて頂いたり、希望や信仰心について、お話下さった事に厚くお礼を申し上げます。−後略-]

この二つの序文については、何ら解説を加える必要は無いであろう。ハーデカさんの真心篭った挨拶なので、冒頭に紹介します。なお、[- -]で結んだ青色の個所は、以降の全文を通じて、ハーデカさんの著書の私訳です。





. 二つのストラテジー

この本の正式名称は、「黒住教と日本の新宗教」である。ハーデカさんは「黒住教」をゴチックで大きく目立たせているので、「日本の新宗教」をうっかり見逃すほどなのだが、その新宗教を彼女は、次のように定義している。

[新宗教は、現代史の中で、三つの時代に分かれて出現した。最初はおよそ1800年から1860年までの間に、第二波としては1920年代、第三波は太平洋戦争後である。]

そして彼女は、第一章で、宗教学者として、これより前の「古いタイプの宗教」(神社神道と仏教)と対比して、堂々と日本の新宗教を論じているのである。関心のある方は原著をお読みいただくとして、その最後のほうで次のように言っている。

[新宗教の世界観を、私は、黒住教のケース・スタディによって解明しようと思うが、そのために、二つのストラテジーを採用する事にした。先ず第一は、第二章がこれに費やされているが、歴史的観点から観察しようとするもので、徳川時代末期に発生した宗教思想の基盤を探索すること、そして、黒住教が神社神道から卵生して行ったプロセスを考察する事である。第二のストラテジーは、黒住教の組織と、活動が活発な地域を、体系的に考究して、新宗教が共有する志向の特徴点が、どのレベルにあるかを明らかにする事である。これが、第三章から第六章までの仕事である。][黒住教を、歴史学と類型学の両方の観点から見ると、古いタイプの宗教と新宗教の境界線上に立っていると言えよう。したがって、新宗教を解明するには、格好のケース・スタディとなる。]

彼女の言う「新宗教」には、ここまでの文脈から、神道系の各教派や、霊友会のような仏教系の宗派まで含まれているので、このようなアプローチが果たして妥当なのかどうか、私には疑問が残る。しかし、私は宗教学者ではないから、この辺りの詮索はしない。




3.黒住教には明確な思想体系がある

ハーデカさんは、長期にわたるフィールドワークをした後で次のように言う。

[黒住教の教義には、生命と宇宙の様々な働きに関する、明確な思想体系がある。]

私は、ハーデカさんが、そもそもどのようなきっかけで、黒住教をケース・スタディの研究対象に選択したのか、全部読み終わった今でも分からない。彼女はその事については一言も触れていないからである。古いタイプの宗教と新宗教との境界線上にある宗教は、なにも黒住教には限らない。ハーデカさんの言う「新宗教」には、前述のように、第二次大戦後のものまで含めて総称しているので、そうだとすれば、現在の日本には、宗教教団と言われるものがゴマンと存在するからだ。(登録されている宗教法人は、18万を超えるそうである)。その中から、みずから単身で日本に乗り込んで来て、フィールドワークまでしようと言う対象を選定するのは、容易な事ではない。大変な勇気の要る事であるだけでなく、リスクを伴う賭けでもある。まして、折角、貴重な時間と労力を掛けて、研究を開始しては見たものの、その途上で「ナーンダ、この宗教には、独創的な宗教思想も体系も無いではないか」と気が付いた時、そのバカバカしさは喩えようもないであろう。そうでなくても、キリスト教と仏教とヒンズー教をミックスしたようなテクストをもって、宗教だと名乗る、開いた口が塞がらないものまで現れるご時世なのである。話を冒頭に戻すと、ハーデカさんは、研究を始めた最初はどうだったか分からないが、この論文を記述する時には、はっきりと「黒住教」の独創的世界観と思想体系を感じ取ったので(詳細は後述)、このような発言になったと思われる。彼女は、この研究の為に、1980年、1981年、1982年の夏と、19836月から19848月までの間、4回も来日してフィールドワークをしている。これを見ると、アメリカへ帰って資料整理をしていたら「まだこの点が、観察不十分だ。あるいは研究不足だ。」と気が付いて、その都度テーマを携えて日本に来た事が分かる。この事実は、逆に考えれば、当初の予想よりも意外に奥行きが深かったか、あるいは彼女を惹きつける何かが在った事を裏付けているように思える。私がハーデカさんのこの著書を読もうとした動機の一つは、外国の知識人が(彼女は大学教授であり、宗教学の博士である)、私たちの信仰を、その知性と感性で、どのように理解し、受容するか、あるいは反撥するか、を知りたかったからである。


4.前例の無い研究

[黒住教に関する最も包括的な研究書は、チャールス・ヘプナーの「神道黒住教」である。この書物の大部分は、その当時の研究方法に従って、黒住教創立までの日本の宗教史に向けられている。残りの部分が黒住教思想の研究に当てられているが、この教団の歴史や機構・儀式については、詳しく取り扱っていない。しかし、哲学的研究としては、

ヘプナーの書物は今日なお有益である。私の研究は、これとは違った仕事である。黒住教を普遍的志向の一例として取り上げて、黒住が創立したこの教団の教義の基となる思想の歴史的展開を取り扱うのである。そうした後で、機構や儀式、世界観の問題に移り、そして現在の日本におけるこの教団と信者の置かれている立場を叙述する。これはヘプナーが考察しなかった問題である。したがって、ヘプナーの書物とこの研究との重複は少ない。重複があるのは、第三章の「教祖の一生に関する概論」の部分だけである。日本の学術書の中にも、いくつかの論文や、大きな書物の中の断章で、黒住教の事を論じたものがある。巻末の参考文献に掲載したとおりである。これらの書物のどれもが、包括的な研究に取り組んでいない。これらは、概して黒住の思想の特定の局面だけしか取り扱っていないか、あるいは、歴史的研究に限定されている。それぞれ、ページの全体量も少なく、教団全体を総合的に研究した日本人の学者も今のところ見当たらない。]

巻末の参考文献は、英文と和文を合わせて、約110冊である。そのうち、65冊が和文、すなわち日本語で書かれた文献である。もちろん、「黒住教教書」や、「ご逸話集」、「精勤徳顕録」まで入っている。 私は、よくもこんなに、関係する文献を探し出して収集したものだと、その数の多さに驚くばかりか、ハーデカさんが、日本語の「候文」まで読みこなしているのを知って恐れ入った。彼女の言うとおり、総合的に黒住教を論じた書物は、私はこれまでにお目に掛かったことがない。こうしてみると、ハーデカさんのこの著述は、黒住教史上はもちろんの事、日本宗教学史上でも、はては、世界宗教学史上の快挙と言っても言い過ぎではないであろう。


5.伊勢参り

ハーデカさんの、第一のストラテジーである歴史的考察を、ほんの一部だけであるが覗いて見よう。      

[新宗教の成長に、一番大きな影響を与える事になった大運動は伊勢参りであった。伊勢神宮は国民的氏神の地位にあったため、一般庶民にしてみれば、お伊勢様にお参りするのだと言えば、他の何処へ行くよりも容易に、藩の外へ出られる許可が得られたのである。そして、徳川時代の末期まで、老若男女のだれもが、少なくとも一生に一度は伊勢参りをするのが、愛国的義務だと理解していたのである。][この伊勢参りは「お蔭参り」とも言われ、およそ六十年ごとに規模が大きくなって行った。徳川時代の全期間を通じて、この伊勢参りの規模に匹敵する大衆運動は見られない。][それまで、「皇室の先祖をお祀りしてあるのが伊勢である」と考えられていたのが、「日本人の最高神がお伊勢様である」と言うふうに、考え方が変化して行ったのである。]

ご承知のように、宗忠様は、そのご生涯のうち、六回の伊勢参宮をされておられる。その第三回目は天保二年であるが、その前年の天保元年(1830)は、伊勢参りが全国的規模で最高潮に達したときであった。「おかげでさ、抜けたとさ」と囃し立て、中には着のみ着のまま、柄杓を手に持って踊りながら、およそ500万人が日本の各地から、三月から七月にかけて、伊勢へ伊勢へと列をなして押しかけたと言われる。宗忠様の、天保元年四月二日・一森彦六郎様宛の御文(82号)にも、その当時の山陽道の様子を、「この節の往来筋は、一面笠ばかりと申す位に成る御事に御座候」と記されておられるから史実であろう。ハーデカさんは、この「伊勢参り」を「皇祖神信仰」ではなく、「日本人の最高神に対する信仰」と観察しているのである。


6.神はカミで、ゴッドではない

[1812年、黒住宗忠は、彼の両親が赤痢で、一週間のあいだに相次いで 死んだ時、絶望的に悲しんだ。この悲しみが恐らく、彼が肺病になる原因と なったのであろう。1813年の暮まで、

彼は衰弱し、もはや最後が近いと宣告された。彼は生きてカミになる夢はもはや叶わぬと考えて、それなら死んであの世で「人々の病気を治すダイエティ(神性)となろう」と誓ったのである。]

私は、宗忠様が使用された「神」という単語を、どのように英語で表現するかに、密かな関心を抱いていた。ところが、ハーデカさんの言葉遣いは、誠に慎重なのである。この短い文章の中で「神」は二ヵ所に出てくるが、彼女は、ご覧になるように、ゴッドとは言わないのである。最初に出て来る「神」は、ローマ字で「kami」と書き、もう一つは「ダイエティ」と表現している。(別のところでは「ディヴィニティ」を同義語として、使っている場合もある。)英語のゴッドは、宇宙を創造した全知全能者で、一人と言うか一つと言うか、二つとないものを指している。これに引き換え、日本語の「神」は、それほど大それた存在ではない。八百万の神と言われるほど、そこいらじゅうに居る・・いや・・居られるのである。善神あり悪神あり、生神あり死神あり、動物や植物、山や滝や岩石まで「神様」としてお祀りされているのである。英語で説明するときに、うっかり、「黒住宗忠はゴッドである」などと言おうものなら、彼等は口にこそ出さないが腹の中では、「これはイカサマだな」と、のっけから怪しまれてしまう。そのあと何を話してもいい加減にしか話を聞いてもらえない。つまり、最初から誤解されてしまうのである。ハーデカさんは、その点さすがに宗教学者である。以降の記述でも、簡単にはゴッドを使っていない。例えば、「天命直授」のところを、彼女は次のように記述している。

[夜明けの東に向かって、宗忠は太陽光線を深く吸い込んだ。彼がそうした時、太陽が空から降りてきて彼の口から入り、身体全体に浸みわたったように思われた。彼はまるで、太陽を飲み込んだようであった。この神秘的体験の中で彼は、太陽と一つになった。このダイエティと一体となった経験が「天命直授」と呼ばれ・・・」

どの書物でも、必ずターゲット、つまり読者層を想定している。ハーデカさんは、黒住教を、英語圏の人に理解できるように記述している筈である。その根底には欧米型の知的思考がある。現代日本人もその傾向があるから、彼女の黒住教解説は、以降の記述も含めて、割合すんなりと頭に入りやすいのではないだろうか。


7.陽気な活き物

[黒住は、全存在には「陽気」と呼ばれる「活き物の原理」が、遍く浸透していると考える。これは「神性」と同義語であり、「嬉しい」とか「楽しい」と言う意味も入っている。世界は、「陽気」つまり「神性のある生命で脈動」しているのである。][天照大御神のお恵みは、万物に差別無く降り注いでいるために、彼女と一体になった生命は、社会的地位とは関係なく全てに行き渡るのである。この「平等」と言う考え方は、当時の社会的階級制度を是認していた「既成宗教」と大きく異なっているところである。][天照大御神が、皇室の先祖の頂点に立つものだと言う理論は、神話と、北畠親房の神皇正統記の中ではっきりしている。黒住は、この理論を明確には否定しなったが、彼自身の教説の中に組み込む事をしなかったのである。]

これは、言わば、ハーデカさんが丸5年、4回にわたるフィールドワークによって、苦心惨憺した後に到達した、黒住宗忠の神観である。ハーデカさんが、このような論述の根拠としたのは、おそらく、星島良平著「教祖宗忠神御小伝」の次の一節であろう。「およそ天地の間に、万物生成するその元は、皆天照大神なり。これ万物の親神にて、そのご陽気天地に満ちわたり、一切万物、光明温暖(ひかりあたたまり)のうちに生々養育せられて止む時無し。実に有難きことなり。各々体中に暖気(あたたまり)のあるは、日の神より受けて具えたる心なり。心はこごると言う義にて、日の神のご陽気が凝結(こりこごり)て心となるなり。・・・」宗忠様の次の御歌(御文85号)も、この思想の核心を詠みあげたものである。「天照す神の御徳は天地(あめつち)に 満ちてかげなき恵みなるかな」彼女はまた別のところで、

[黒住が神官をしている限りは、彼に従って来る門人たちは、今村宮の氏子であると考えられた。黒住は1843年(天保14年)に、今村宮から引退した。その後の門人たちの立場が問題になる。門人たちを氏子と見なす事は、もはや出来なくなった。門人たちは、今や黒住と言う「人」に付いていて、神社に従属しているのではなくなったのである。]

とも、言っている。前段の記述が、宗忠様の宗教思想を神道史上の画期的出来事として位置付けているなら、後段の一節は、これまで、神道が学問・論理として認識されてきた基盤から、宗教として胎動を始めた嚆矢として認知されるべきだと主張しようとしているものであろう。

 

*** 続く***